越谷達之助記念会

Profile

プロフィール

越谷達之助

越谷達之助 (こしたに たつのすけ)
1909年-1982年
作曲家・音楽教育家・伴奏ピアニスト・朗読家

1931年(昭和6年)、東京音楽学校師範科(現東京芸大)卒業。 和歌山師範学校(現和歌山大学教育学部)に教諭として赴任。 その後、東宝劇団や大船撮影所に俳優として在職。 三浦環、奥田良三氏らの自作曲ピアノ伴奏者として各地で活躍。 戦後は世田谷区立新星中学校(2004年池尻中と統合し現世田谷区立三宿中学校)、青山学院高等部、大学、短大講師と専任教官を務めた。 享年73歳。(歌曲集「戦盲歌」作曲者略歴より)

「初恋」

石川啄木の短歌「砂山の砂に腹這い 初恋の いたみを遠く思い出ずる日」に越谷達之助先生が 昭和13年に作曲し三浦環に捧げられた日本歌曲の不朽の名曲「初恋」は、今も多くの日本人に愛唱されています。 また海外の多くの著名な声楽家にもしばしば歌われ、日本歌曲を代表する名曲となっています。 この「初恋」は越谷達之助先生の歌曲集「啄木によせて歌える」に収められています。

青山学院校友会誌<あおがく チャイムズ第4号>('03/12月発行)

あおがくチャイムズ

日本を代表する名曲のひとつ『初恋』。 この作曲者である越谷達之助先生は多くの校友にとって音楽の師でもある。 高等部の生徒時代に音楽の授業を受け、進学に際し音楽大学への道を勧められたことで、 後の人生を決定づけられた校友の青木純さん(高等部19期)にとってはとくに偉大なる師である。 「普段は優しく、温厚でした。授業はとてもレベルが高かった。 いつも素晴らしく魅力的な、よく通る声で、音楽そのものより”音楽する心”の大切さを説かれていましたね。 クリスチャンだった事もあったのでしょうが、「物質的なことよりも精神性の大切さを教えてくださったのです」 高等部時代の越谷先生を振り返り、青木さんはそう語ってくださった。 青木さんは現在、越谷先生が見抜いたとおり、ミュージカルやオペレッタを中心に歌い手や役者として第一線で活躍している。 「ある時先生が著名な歌手にこういっているのを耳にしました。 『この歌は譜面通りに歌う歌じゃない』つまり情感や独特の間を取って、邦楽的要素を入れよということなんです。 たしかに譜面通りに再現すると、本当に”味”がなくなるんですよ」 青木さんはそんな先生の世界を伝えていくことが、自分の使命のひとつだと考えている。 「先生の好きな言葉に、『桐の樹には、桐の花を咲かしめよ』というものがあります。 つまり日本人ならば、日本人なりの精神風土を大切にしなさいということです。桐の樹に、桃の花を咲かせるなと」。 越谷先生は作曲のために「短歌」を好んで選んだ。おそらく、短さに込められた日本語の美しさや、永遠性を愛されたのではないか。 「初恋」は今でも歌い継がれ、愛されている。そしてもうひとつ忘れてはならぬ曲がある。高等部の生徒が毎日耳にする名曲。 そう、始業のチャイムとしてお馴染みの「花のまつり」も越谷先生の代表曲だ。

越谷達之助先生との関わり~青木純

青木純

高校(青山学院高等部)の音楽の先生が石川啄木の短歌による名曲「初恋」の作曲者、越谷達之助(こしたにたつのすけ)氏であった。 氏は常々授業の中で「歌は心で歌うもの」である事を説かれた。そしてその勧めもあって声楽の道を志す事になった。イタリア留学中のことである。 ある日モーツァルトのオペラのレッスンを受けていた時、師匠のチオーニが『モーツアルトはイタリア人の為にオペラをつくった』と言ったことがあった。 その時につくづく思ったのは、我々日本人にとって最後は日本の歌で勝負するしかないということだった。 イタリア留学から帰国し、すでに作曲に専念されていた越谷先生に師事し、代表曲「初恋」と「初恋」が収められている歌曲集「啄木に寄せて歌える」等、 先生の作品のレッスンを受けた。 作曲家としてだけでなく戦前は俳優として活躍され、また戦後もずっと詩人として、また朗読家としても活躍された先生の厳しいレッスンで、 先生の作品の先生自身が望まれる表現方法はむろんのこと、日本語をどのように歌ったら良いのか、技術と心の両面から学ばせて頂き、 それから越谷先生が亡くなられるまでの数年間、先生の朗読との共演と云う形で何度も一緒に舞台に立たせて頂いた。

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